ドラえもんにおける「暴力」の優位性

 そもそも、ジャイアンは、何故、のび太に理不尽な命令をするのか?

 自分勝手と言ってしまえばそこまでだが、「間違っている」と否定することはきわめて難しい。ジャイアンの中では、自分に従うことが、「正しい」ことであり、「正義」だからである。

 では、スネ夫は、何故、のび太に嫌がらせをするのか?

 スネ夫は、ジャイアンに従うことにより、ジャイアンというバックボーンを得ることになる。

 時に、ジャイアンから理不尽な命令をされることもあるが、逆らって「暴力」をふるわれるよりは、従順に従うことを選ぶだろうし、のび太という身代わりを差し出すことにより、安全なポジションを獲得しようとする。
 
 それに対して、のび太は、ジャイアンに従うことは、「理不尽」だと考え、反抗する。

 反抗するため、のび太は、ジャイアンスネ夫の格好のターゲットになる。

 そこで、のび太ジャイアンを分かつものが、「暴力」である。というより、「暴力」しかない。

 
 では、この二人の衝突を避けることは出来ないのだろうか?

 最も効果的な策は、第三者の介入である。

 第三者が、ジャイアンが正しいのか、理不尽なのかを判定してしまえば、話は早く、うまく収まるのである。

  しかし、ジャイアンが自分の行いが「正しい」と思ってしまっている以上、「間違っている」といったところで通じる可能性はきわめて低い。

 ならば、ジャイアンの命令を拒否しても、対等に張り合える人物が間に立つことが必要になる。

 すると、このポジションを担える人物はいないのだろうか?

 担任の先生が真っ先に浮かぶかもしれないが、学校外が舞台であることが多いことを考えると、少し難しいかもしれない。


 しかし、もう一人、このポジションを担いうる人物がいる。

 そう!出来杉君だ!

 彼は、出来杉という名前からすぐわかるように、何でも出来てしまう。

 物語で、唯一、ジャイアンと対等、もしくは、対等以上に渡り合える相手である。

 しかし、物語で、彼がそのようなポジションを担うことはない。

 それは、何故なのか?

 彼は、頭がいい。それが故に、わかってしまうのである。

 彼が、ジャイアンのび太を仲介することによるメリットよりもデメリットが多いことに。

 彼としては、のび太の方が正しいと考える。やはり、言うことを聞け!というのは理不尽だ。

 しかし、そこで、のび太の味方をしたところで、メリットは、のび太から感謝されること+人を助けたという自己満足しかない。

 しかし、代償として、ジャイアンと衝突する事となり、「暴力」をふるわれるリスクが生じる。ほとんど全ての要素で勝っているであろう出来杉君でさえ、「暴力」という面で考えた時、確かに、ジャイアンのほうが分があるように感じられる。

 結果、彼は「関わらない」ことが最も彼にとって合理的な判断となる。

 結局、「暴力」にかなうものはないのである。

 ドラえもんでは、ドラえもんの道具が、時として、ジャイアンの「暴力」と対抗するが、現実世界にそんな道具はない。

 唯一の解決策としては、警察に訴えるしかないだろう。


 ここまで書いてきたが、決して、ジャイアンも悪くはない。
 
 のび太ジャイアン症候群なることばが存在するらしい。

 要は、二人とも、ADHDってことらしい。

 確かに、宿題をいくらやってないとしても、あの成績は、「勉強しろ!」ですますのではなく、何らかの障害を疑い、優しく接した方がいい気がする。