ザ・クイズショウ1

ザ・クイズショウについては、色々書きたいことがあるんだけど、とりあえず、今回は、ラストのある台詞について。

「生きている限り、夢にあがくことが出来る」

この台詞ね。

現代の若者は、夢について語らなくなってきていたり、もしかしたら、夢について考えなくなってきているように思えるんだよね。

一つ目の原因としては、自己責任論の普及に伴い、発言一つ一つに大きな責任が課せられていること。

亀田バッシングとかその典型だよね。

言ったことには、責任を取らなきゃいけないから、うかつな夢は語れなくて、ある程度の覚悟が必要ってことだよね。

失敗は許されないって感じ。

二つ目の原因としては、未来にリアリティを感じない若い子って多いんじゃないかなってこと。

今にしかリアリティを感じられなくて、未来のことなんて考えられないって感じ。

未来が不透明な時代だからこそって感じ。


まぁ、だからこそ、土曜九時の多くの若者が見る時間帯のドラマで、夢を持つことの重要性みたいなのを訴えるのは、ある意味、いいことなんじゃないかなとは思った。

ただ、夢ってのは、叶わないことが多々あるわけで、その叶わなかった時の補償をしてあげないととは思うけど。

だから、むやみに、夢を語りかけるのはとても危険だと思う。

それも、再チャレンジできない社会ってのに大きな問題がある気がするけど。

鳩山さんが辞めましたね。

まぁ、しょうがないんじゃないかな。

西川さんが辞めるかどっちかしかなかったと思うし。
引っ掛かったのは、西川さんが謝るっていう妥協案。
謝っちゃだめでしょ。謝るんだったら、西川さんが辞めるべきじゃない?
まぁ、この道で行くなら、西川さんで突っ走るしかないでしょ。内閣改造は、くればあだなと思ったけど。

しかし、昨日と関連するけど、あそこまで、正義って言えちゃうのは、政治家向きだよね。
あなたにとっての正義でしょっておもっちゃうんだよね。



話は変わるけど、『スジナシ』は、面白い。相互行為をベタにやってるよね。

最初はお互い相手を伺いながら、徐々に徐々に話を作りあげていくって感じ。
面白いのは、ドラマにするってことで、話を進めながら、あえて意外性もいれていくところ。
あと、お互いが自分で話を作ってきてないとことかね。
ゴールが決まってないから、日常に近い感じになるよね。言ったことを後から合わせていくって感じで。
で、後半になると、設定を両方が大体決め込んでいって、どっちが相手に合わせていくかっていう。

でも、これって、お互いが我を押し通しでもダメだし、お互いが相手任せでもダメなんだよね。
プレビュートークもネタばらしみたいで面白いよね。
先入観あると、相手が違う反応してきちゃうとそこで立て直さないといけなくなるっていう。
先を予測しながら、コミュニケーションっていうメタ的だよね。推理小説とかみたく綺麗過ぎないのがリアルだよね。


もう四時か。明日は頑張ろ!

二つの壁

論文を書かなきゃいけないんだけど、二つの壁にぶつかっちゃったって感じ。

一つ目が、「正しい」ってなんだろうって壁。
結局、自分の思想なだけなんじゃないかっていう。

二つ目が、「コトバ」の壁。
自分が伝えたい意味で、他者に伝わってるかわかんないんだよね。
それぞれ、人によって、ある「コトバ」の意味って、多かれ少なかれ違うわけで。
まぁ、根本的なボキャブラリ不足ってのもあるんだけど。
あと、個人的に、ハイコンテクスチュアルな表現が好きってのもあるけど。

もっと、論理的に考えて生きていこう。

なんだかんだで、時代は「友情」

少女 (ハヤカワ・ミステリワールド)

少女 (ハヤカワ・ミステリワールド)

 女子高校生二人が中心で動いていく話。

 とても細かいところがリアリティがあるなって感じはあったかな。

 お互い家族の影響をとても受けて成長していった感じが伝わる性格描写も秀逸。というか、どの登場人物においても、「家族」というのが、一つのカギになってたと思う。

 特に、由紀には、結構共感したかな。

 タッチーと昴の「友情」とは、少し質の違う二人の「友情」ってのが、対照的に描かれていた気がした。

 まぁ、タッチーと昴の場合は、若いし、入院生活を共にしていて、いつも一緒にいるし、死・病気というものを意識しなければならないってのもあるから、かなり特殊ではあるのかもしれない。

 二人の「友情」を、薄いとかうわべと言ってしまうこともできるのかもしれないけど、ある意味、大人なのかもしれない。

 でも、紫織との「友情」と、二人の「友情」ってのは、また違って(もしかしたら、同じかも)、それが決定的な結果を生む。

 結末も含めて、「友情」について考えさせられたかな。
 

 あと、考えさせられたのは、自分が気付かないところで、人を傷つけている可能性があること。

 この小説は、それが多くあったかなって気がした。

 
 小説自体は、色々な伏線が一気に繋がって、面白かった。

 少し、病院から走って逃げるシーンがいきなりすぎる気はしたけど。 


 「世界は広い」 このフレーズがとても印象に残った。

ドラえもんにおける「暴力」の優位性

 そもそも、ジャイアンは、何故、のび太に理不尽な命令をするのか?

 自分勝手と言ってしまえばそこまでだが、「間違っている」と否定することはきわめて難しい。ジャイアンの中では、自分に従うことが、「正しい」ことであり、「正義」だからである。

 では、スネ夫は、何故、のび太に嫌がらせをするのか?

 スネ夫は、ジャイアンに従うことにより、ジャイアンというバックボーンを得ることになる。

 時に、ジャイアンから理不尽な命令をされることもあるが、逆らって「暴力」をふるわれるよりは、従順に従うことを選ぶだろうし、のび太という身代わりを差し出すことにより、安全なポジションを獲得しようとする。
 
 それに対して、のび太は、ジャイアンに従うことは、「理不尽」だと考え、反抗する。

 反抗するため、のび太は、ジャイアンスネ夫の格好のターゲットになる。

 そこで、のび太ジャイアンを分かつものが、「暴力」である。というより、「暴力」しかない。

 
 では、この二人の衝突を避けることは出来ないのだろうか?

 最も効果的な策は、第三者の介入である。

 第三者が、ジャイアンが正しいのか、理不尽なのかを判定してしまえば、話は早く、うまく収まるのである。

  しかし、ジャイアンが自分の行いが「正しい」と思ってしまっている以上、「間違っている」といったところで通じる可能性はきわめて低い。

 ならば、ジャイアンの命令を拒否しても、対等に張り合える人物が間に立つことが必要になる。

 すると、このポジションを担える人物はいないのだろうか?

 担任の先生が真っ先に浮かぶかもしれないが、学校外が舞台であることが多いことを考えると、少し難しいかもしれない。


 しかし、もう一人、このポジションを担いうる人物がいる。

 そう!出来杉君だ!

 彼は、出来杉という名前からすぐわかるように、何でも出来てしまう。

 物語で、唯一、ジャイアンと対等、もしくは、対等以上に渡り合える相手である。

 しかし、物語で、彼がそのようなポジションを担うことはない。

 それは、何故なのか?

 彼は、頭がいい。それが故に、わかってしまうのである。

 彼が、ジャイアンのび太を仲介することによるメリットよりもデメリットが多いことに。

 彼としては、のび太の方が正しいと考える。やはり、言うことを聞け!というのは理不尽だ。

 しかし、そこで、のび太の味方をしたところで、メリットは、のび太から感謝されること+人を助けたという自己満足しかない。

 しかし、代償として、ジャイアンと衝突する事となり、「暴力」をふるわれるリスクが生じる。ほとんど全ての要素で勝っているであろう出来杉君でさえ、「暴力」という面で考えた時、確かに、ジャイアンのほうが分があるように感じられる。

 結果、彼は「関わらない」ことが最も彼にとって合理的な判断となる。

 結局、「暴力」にかなうものはないのである。

 ドラえもんでは、ドラえもんの道具が、時として、ジャイアンの「暴力」と対抗するが、現実世界にそんな道具はない。

 唯一の解決策としては、警察に訴えるしかないだろう。


 ここまで書いてきたが、決して、ジャイアンも悪くはない。
 
 のび太ジャイアン症候群なることばが存在するらしい。

 要は、二人とも、ADHDってことらしい。

 確かに、宿題をいくらやってないとしても、あの成績は、「勉強しろ!」ですますのではなく、何らかの障害を疑い、優しく接した方がいい気がする。
  

『トライアングル』にみる「悪」

 結局、犯人は、丸山だった。

 そして、事件の動機には、「妹」が持ち出される。

 つまり、彼もある意味では、被害者である。

 そのため、この事件は、「正義」対「正義」であったことが明らかになる。

 しかし、丸山の「正義」は、手段として、「悪」を用いてしまった。

 そして、それが、「弱さ」になる。

 丸山の執拗な郷田に対する執着(結果的に、彼の家族三人、違う二人を殺してしまうことになる)は、自分と似た境遇にいるが故に生じているのではないだろうか。

 しかし、最後に、郷田は、丸山を殺さない。これが、「強さ」なのではないだろうか。

 物語は、それぞれが、これからは、「自分の人生」を生きていくことを強調して終わる。

 しかし、自分の「正義」が正しいかはわからない。場合によっては、誰かから何かを奪ってしまうことがある。そのため、奪われることだってありうる。

 そこで、「自分の人生」を生きられるのは、「強い」もの、過去を受け入れて生きていけるものである。

 偶有可能性を捨てきれないが故に、過去を変えようと人はする。しかし、過去は変えられない。自分が受け入れていくしかないのである。

朝生(2009.2)とサンプロ(2009.3.1)の感想

朝生のテーマは、医療崩壊について。

とりあえず、どのパネリストも基本的に一致してたのは、医者不足だから、増やそうって話。
確かに、たらい回しとか、相当きつい労働らしいし、増やそうってのは、当然といえば、当然。
まぁ、ただ引っかかるのは、田原さんが何回か言ってたけど、お年寄りの集会所と化していて、「今日あの人、風邪だから家で寝てて来てない」っていう事態があること。
だから、患者が多すぎるってのも問題かもと感じた。
何か、子どもの軽い症状に対しての家で出来る対処法を教えるセミナーみたいなのもやってるらしいし、お年寄りの集会所を別に作ってあげるとか患者側からの対策も考えられるんじゃないかな。

あと、今の日本は、ヨーロッパ型の高負担高福祉でも、アメリカ型の低負担低福祉でもなく、中途半端だっていわれるけど、自民党の政策として、中負担中福祉だったってのは初耳だった。
まぁ、自分は、高負担高福祉がいいかなとか思うけど、消費税増税とかには、どうせ、反対が多いんだから、現実的な政策としては間違ったないのかもと思った。
大村さんは、公共事業とかの無駄を省いて、福祉に使えって批判されてたけど。
その点、民主党政権になれば、そういう無駄が省けるのかなって期待は確かにあるんだよね。
それが現実に出来るかどうかはかなり怪しいと思うけど。

あと、定額給付金は、ロジックとしては、間違いなく正しいと思う。
ただ、非正規雇用に使って欲しい人とか福祉に使って欲しい人とかは、そういう目的に使われるようなところに寄付をすればいいのかなと思う。
だから、それを確実に実行する機関なり何かは必要だと思うけど。
まぁ、それで、実際、そこにお金を寄付する人がどれくらいいるかはわかんないけどね。


あと、サンプロは、竹中さん対亀井さん

やっぱり、竹中さんの話って、ロジックがしっかりしてる気がするなって感じ。
まぁ、政治の難しいところも、ifがないところだよね。
もし、郵政民営化していなければ、なんてわかんないし。

今日のは、何か漠然とした印象論だな。
これから、もうちょい色々考えてみよう。